「 雨のち晴れ 」 エコバッグが紡ぐショートストーリー


ショートストーリー

ペンネーム:黄身川原プリン

その小さなシールを見た瞬間、息が止まった。

 

勤務先のIT企業。
「祭」と題されたその企業主催のイベントを翌日にひかえ、本来は開発担当である自分も準備に駆り出される。まだ客のいない広い会場で、来場者に配るグッズや、パンフレットの仕分けをしていたが、

 

 

それらを入れる肝心の袋が届かない。

 

 

先ほどから担当者が血相変えながら運送業者と電話でやり取りしていて、夜の7時にようやく配達されたそれは、30箱以上の大量のダンボール。中身を聞くとエコバッグだそう。
会社のロゴを売れっ子デザイナーがデフォルメして描いた絵。それが印刷されたバッグに、先ほどのグッズとパンフレットを入れて渡すのだそうだ。

 

 

「ただの袋より、その後も使えるエコバッグの方が印象が良い。」

 

 

このイベントを総括する役員の鶴の一声で決まり、担当者が急いで発注したらしい。
そのため到着もギリギリになり、これから荷詰めすると作業は深夜にまで及ぶだろう。
IT企業と言えど、やっていることは意外と泥臭い。

 

 

 

ダンボールを開け、中を取り出すと、大量のエコバッグが100個単位で大きな透明のビニール袋に梱包されている。そのビニールの表面に貼ってあった「天佑集団」のシール。バッグを製造した中国のメーカーらしく誰も気に留めていない。
しかしそれは父の会社だった。

 

 

 

 

ダッダッダッダッダッダッ

 

 

小気味良い工業用ミシンの音。熟練になれば一息で縫い終わる。
途中で小休止を入れるのは大抵は新人で、変なところで止まるから聞いているこちらが疲れてしまう。そんな音を聞いて育った。

辺鄙な農村に過ぎなかった故郷に、父が生地の縫製を行う「天佑集団」を創業したのは30年前。私が生まれる前の話だ。
今では同業の工場が立ち並び「布の街」として世界からオーダーが来る。

 

 

私が小さい頃、まだ自宅と工場が同じ敷地にあった時には工場が私の遊び場。けれど子供には危険な設備も沢山あるものだから、布の裁断をする大きな機械がある部屋などに勝手に入ると、父に「手がなくなるぞ!!」と叱られ、腕が腫れるくらい竹の定規でぶたれた。

 

 

あまりの剣幕と、腕の痛みに泣いていると、ここよりもっと貧しい寒村から出てきた女工さん達が「ほらほら、もう泣かない」と自分たちの貴重な間食である山査子(サンザシ)の砂糖漬けをわけてくれる。それが私の思い出だった。

 

 

病弱だった母は私を生んだ直後に亡くなっていて、父と娘、二人きりの生活。

 

「勉強しろ」

 

それしか言わない父は朝早くから工場に出て、帰ってくるのは深夜。

 

寂しくもあったが、父が望む勉強だけはしっかりやっていて、成績はいつも学年トップ。その成績表を見せると、普段は見ることのない父の笑顔に接することが出来て、それだけが嬉しかった。

地元の高校を出て、国内理系の最高峰。北京の精華大学へ。
このことは父にとっては相当鼻が高かったようで、合格を告げた時、私には「そうか。良くやった。」と一言返しただけだったが、会社では随分と自慢してまわったらしい。

 

 

その頃、中国の縫製業はより人件費の安いベトナムやカンボジアに仕事を奪われ、苦境に陥っていた。

 

それよりほんの数年前、父のライバル企業たちは、海外のファストファッションブランドの仕事を大量に受注して急成長を遂げていたが、職人気質で、お世辞の一つも言えない父はその波に乗り遅れていた。そのため、町工場に毛の生えた程度の規模なのに、社名に「集団(グループ)」と入れていた父は密かに仲間からバカにされていたようだ。
しかし、そんなバブルも弾け、大手のいくつかは倒産の憂き目に会うのだが、良くも悪くも現状維持で、規模拡大をしなかった父は何とか会社を存続させていた。
また、父の会社の仕事ぶりは業界でも評判で、特に主力の布製のエコバックは「安いのに丁寧」と言われ、小ロットの発注でも決してないがしろにすることはなかった。それも客が離れなかった一因だろう。

 

 

 

発展したとはいえ一地方に過ぎない故郷から大都会の北京に出て、大学近くの寮での一人暮らし。初めて父と離れたことは私の心を軽くした。
もちろん父の気持ちは分かっていた。名門大学で学位を取得し、自分の跡を継ぐ。

 

 

無学の自分が叶えられなかった「グループの夢」を子に託す。

 

 

しかし、学べば学ぶほど、世界を知れば知るほど、家業を継ぐ気にはなれなかった。
そして卒業を間近に控えた最終学年。日本の有名大学院との交換留学の機会を得る。
大学でも優秀な成績を修めていた私には、学費免除と寮費が支給されるという破格の条件が提示され、実家に帰りたくない私は一も二もなくそれに飛びついた。
来年には自分のもとに戻り、後継者となるべく会社に入ると思って期待していた父はこのことに激怒し、父娘の感情的な言い合いの中で「継ぐつもりはない」私はそう告げ、落胆する父に背を向け、日本に「逃げて」きたのだ。

 

父の妹で、母代わりの叔母にはどこで何をしているかくらいは報告していたが、父には一切連絡することもなく6年が過ぎようとしていた。

 

人を出し抜くのが当たり前の猛烈な競争社会の中国と異なり、完全に成熟した日本はとても居心地が良く、大学院の指導教授の薦めで「海外人材枠」として大手家電メーカーに入社し、何となくこの国に居ついてしまった。その後、「日本のIT企業で初めて世界に通用する」と言われているSNSサービスを提供するこの会社にヘッドハンティングされ、開発チームのリーダーとして日々を過ごしていた。

 

しかし、まさかここで父の影を見ることになるとは。

 

 

若手の男性社員がビニールを破り、中身を取り出しては積み上げていく。

 

 

エコバッグの評判はおおむね良好で、それらの意見のほとんどはデザイナーが描いた自社のロゴに対してのものなのだが、「思ったよりしっかりしてるな」とか「意外と丁寧に作られてる」という、バッグ本体を褒める声もあって、父と、私を可愛がってくれた女工さん達が褒められているようで一人ほほ笑む。
ふと足元に落ちていたビニール袋、そこに貼ってある父の会社のシールに目が行く。
先ほどは動転して気付かなかったが、ただでさえ小さな「天佑集団」の文字の上に更に小さく企業スローガンのようなものが書いてある。私も初めて目にするそれは、

 

 

「走你自己的路美」

 

 

とあり、日本語で言えば「我が道を行く、美しき『天佑集団』」とでも訳せる。いかにも中国的なキャッチフレーズだが、

 

 

私にはすぐに本当の意味がわかった。

 

 

私が生まれた日。まだ農村だった故郷の村は干ばつが続いていたらしい。
しかし、母が産気づいたのと前後して雨が降りはじめ、大地を潤す恵みの雨となった。
雨の中、母の命と引き換えに生まれた赤子は「美雨(メイユウ)」と名付けられた。父は私を「美(メイ)」とよぶ。

 

 

メイ、自分の道を歩め。
そのスローガンはそう言っていた。

 

 

父の作ったバッグは世界中に輸出されているが、その中には日本も含まれる。もしかしたら娘の目に留まるかも、と日本行きの荷にだけシールを貼るようにしたのかもしれない。
私だけに分かるメッセージを託して。

この日本で、しかもただの包装に貼った小さなシールを私が目にする確率はゼロに近い。でも、ほとんど故郷の村を出ることもなく、世界の広さを知らない父は何年も愚直に続けた。そう思うと涙が出てきた。

そんな時、ジーンズのポケットに入れてあるスマホが震え新着のメッセージを告げる。画面を見ると、この会社の開発するSNSアプリが「和朋友一起?(友達では?)」と言う。

 

 

そういえば、このツールの中国版が先日リリースされたばかりで、中国出身の私はそのプロジェクトの責任者だった。
まだ数少ない中国人ユーザーの中に、私のスマホに番号登録されていた人がいたのだろう。中国のITベンチャーで働く大学時代の友人たちかな、そう思ってそのリストを見ると、案の定数人の友達の名が続き、

 

一番下に父の名があった。

 

あのお父さんがSNSとはね。きっと私に通知されることも分かっていないだろう。今度は笑いが止まらなかった。

 

「爸爸、你好吗?(お父さん、元気?)」

 

勇気を持って私は送信ボタンを押す。「お父さんのバッグ、好評だよ。」と付け加えて。

 

 

 

 


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