「 雨のち晴れ 」 エコバッグが紡ぐショートストーリー

ペンネーム:黄身川原プリン

その小さなシールを見た瞬間、息が止まった。

 

勤務先のIT企業。
「祭」と題されたその企業主催のイベントを翌日にひかえ、本来は開発担当である自分も準備に駆り出される。まだ客のいない広い会場で、来場者に配るグッズや、パンフレットの仕分けをしていたが、

 

 

それらを入れる肝心の袋が届かない。

 

 

先ほどから担当者が血相変えながら運送業者と電話でやり取りしていて、夜の7時にようやく配達されたそれは、30箱以上の大量のダンボール。中身を聞くとエコバッグだそう。
会社のロゴを売れっ子デザイナーがデフォルメして描いた絵。それが印刷されたバッグに、先ほどのグッズとパンフレットを入れて渡すのだそうだ。

 

 

「ただの袋より、その後も使えるエコバッグの方が印象が良い。」

 

 

このイベントを総括する役員の鶴の一声で決まり、担当者が急いで発注したらしい。
そのため到着もギリギリになり、これから荷詰めすると作業は深夜にまで及ぶだろう。
IT企業と言えど、やっていることは意外と泥臭い。

 

 

 

ダンボールを開け、中を取り出すと、大量のエコバッグが100個単位で大きな透明のビニール袋に梱包されている。そのビニールの表面に貼ってあった「天佑集団」のシール。バッグを製造した中国のメーカーらしく誰も気に留めていない。
しかしそれは父の会社だった。

 

 

 

 

ダッダッダッダッダッダッ

 

 

小気味良い工業用ミシンの音。熟練になれば一息で縫い終わる。
途中で小休止を入れるのは大抵は新人で、変なところで止まるから聞いているこちらが疲れてしまう。そんな音を聞いて育った。

辺鄙な農村に過ぎなかった故郷に、父が生地の縫製を行う「天佑集団」を創業したのは30年前。私が生まれる前の話だ。
今では同業の工場が立ち並び「布の街」として世界からオーダーが来る。

 

 

私が小さい頃、まだ自宅と工場が同じ敷地にあった時には工場が私の遊び場。けれど子供には危険な設備も沢山あるものだから、布の裁断をする大きな機械がある部屋などに勝手に入ると、父に「手がなくなるぞ!!」と叱られ、腕が腫れるくらい竹の定規でぶたれた。

 

 

あまりの剣幕と、腕の痛みに泣いていると、ここよりもっと貧しい寒村から出てきた女工さん達が「ほらほら、もう泣かない」と自分たちの貴重な間食である山査子(サンザシ)の砂糖漬けをわけてくれる。それが私の思い出だった。

 

 

病弱だった母は私を生んだ直後に亡くなっていて、父と娘、二人きりの生活。

 

「勉強しろ」

 

それしか言わない父は朝早くから工場に出て、帰ってくるのは深夜。

 

寂しくもあったが、父が望む勉強だけはしっかりやっていて、成績はいつも学年トップ。その成績表を見せると、普段は見ることのない父の笑顔に接することが出来て、それだけが嬉しかった。

地元の高校を出て、国内理系の最高峰。北京の精華大学へ。
このことは父にとっては相当鼻が高かったようで、合格を告げた時、私には「そうか。良くやった。」と一言返しただけだったが、会社では随分と自慢してまわったらしい。

 

 

その頃、中国の縫製業はより人件費の安いベトナムやカンボジアに仕事を奪われ、苦境に陥っていた。

 

それよりほんの数年前、父のライバル企業たちは、海外のファストファッションブランドの仕事を大量に受注して急成長を遂げていたが、職人気質で、お世辞の一つも言えない父はその波に乗り遅れていた。そのため、町工場に毛の生えた程度の規模なのに、社名に「集団(グループ)」と入れていた父は密かに仲間からバカにされていたようだ。
しかし、そんなバブルも弾け、大手のいくつかは倒産の憂き目に会うのだが、良くも悪くも現状維持で、規模拡大をしなかった父は何とか会社を存続させていた。
また、父の会社の仕事ぶりは業界でも評判で、特に主力の布製のエコバックは「安いのに丁寧」と言われ、小ロットの発注でも決してないがしろにすることはなかった。それも客が離れなかった一因だろう。

 

 

 

発展したとはいえ一地方に過ぎない故郷から大都会の北京に出て、大学近くの寮での一人暮らし。初めて父と離れたことは私の心を軽くした。
もちろん父の気持ちは分かっていた。名門大学で学位を取得し、自分の跡を継ぐ。

 

 

無学の自分が叶えられなかった「グループの夢」を子に託す。

 

 

しかし、学べば学ぶほど、世界を知れば知るほど、家業を継ぐ気にはなれなかった。
そして卒業を間近に控えた最終学年。日本の有名大学院との交換留学の機会を得る。
大学でも優秀な成績を修めていた私には、学費免除と寮費が支給されるという破格の条件が提示され、実家に帰りたくない私は一も二もなくそれに飛びついた。
来年には自分のもとに戻り、後継者となるべく会社に入ると思って期待していた父はこのことに激怒し、父娘の感情的な言い合いの中で「継ぐつもりはない」私はそう告げ、落胆する父に背を向け、日本に「逃げて」きたのだ。

 

父の妹で、母代わりの叔母にはどこで何をしているかくらいは報告していたが、父には一切連絡することもなく6年が過ぎようとしていた。

 

人を出し抜くのが当たり前の猛烈な競争社会の中国と異なり、完全に成熟した日本はとても居心地が良く、大学院の指導教授の薦めで「海外人材枠」として大手家電メーカーに入社し、何となくこの国に居ついてしまった。その後、「日本のIT企業で初めて世界に通用する」と言われているSNSサービスを提供するこの会社にヘッドハンティングされ、開発チームのリーダーとして日々を過ごしていた。

 

しかし、まさかここで父の影を見ることになるとは。

 

 

若手の男性社員がビニールを破り、中身を取り出しては積み上げていく。

 

 

エコバッグの評判はおおむね良好で、それらの意見のほとんどはデザイナーが描いた自社のロゴに対してのものなのだが、「思ったよりしっかりしてるな」とか「意外と丁寧に作られてる」という、バッグ本体を褒める声もあって、父と、私を可愛がってくれた女工さん達が褒められているようで一人ほほ笑む。
ふと足元に落ちていたビニール袋、そこに貼ってある父の会社のシールに目が行く。
先ほどは動転して気付かなかったが、ただでさえ小さな「天佑集団」の文字の上に更に小さく企業スローガンのようなものが書いてある。私も初めて目にするそれは、

 

 

「走你自己的路美」

 

 

とあり、日本語で言えば「我が道を行く、美しき『天佑集団』」とでも訳せる。いかにも中国的なキャッチフレーズだが、

 

 

私にはすぐに本当の意味がわかった。

 

 

私が生まれた日。まだ農村だった故郷の村は干ばつが続いていたらしい。
しかし、母が産気づいたのと前後して雨が降りはじめ、大地を潤す恵みの雨となった。
雨の中、母の命と引き換えに生まれた赤子は「美雨(メイユウ)」と名付けられた。父は私を「美(メイ)」とよぶ。

 

 

メイ、自分の道を歩め。
そのスローガンはそう言っていた。

 

 

父の作ったバッグは世界中に輸出されているが、その中には日本も含まれる。もしかしたら娘の目に留まるかも、と日本行きの荷にだけシールを貼るようにしたのかもしれない。
私だけに分かるメッセージを託して。

この日本で、しかもただの包装に貼った小さなシールを私が目にする確率はゼロに近い。でも、ほとんど故郷の村を出ることもなく、世界の広さを知らない父は何年も愚直に続けた。そう思うと涙が出てきた。

そんな時、ジーンズのポケットに入れてあるスマホが震え新着のメッセージを告げる。画面を見ると、この会社の開発するSNSアプリが「和朋友一起?(友達では?)」と言う。

 

 

そういえば、このツールの中国版が先日リリースされたばかりで、中国出身の私はそのプロジェクトの責任者だった。
まだ数少ない中国人ユーザーの中に、私のスマホに番号登録されていた人がいたのだろう。中国のITベンチャーで働く大学時代の友人たちかな、そう思ってそのリストを見ると、案の定数人の友達の名が続き、

 

一番下に父の名があった。

 

あのお父さんがSNSとはね。きっと私に通知されることも分かっていないだろう。今度は笑いが止まらなかった。

 

「爸爸、你好吗?(お父さん、元気?)」

 

勇気を持って私は送信ボタンを押す。「お父さんのバッグ、好評だよ。」と付け加えて。

 

 

 

 

「 旅の思い出は匂いと共に 」 エコバックが紡ぐショートストーリー

ペンネーム:黄身川原プリン

 

 

クローゼットの奥。

ダンボールを空けると、箱一杯に色々な柄のエコバッグ。
どのバッグも薄汚れていて、お世辞にも綺麗とは言い難いのだが一枚一枚ちゃんと畳まれ、それぞれがジップロックに入れてある。
世界広しと言えども、エコバッグを「真空パック」して保管しているのは僕くらいだろう。

 

 

そしてそれを眺め、ふと思い出す。

 

「写真も良いけど、旅の思い出は『匂い』だよ」

 

そう言って彼女は空になったバッグを広げ、その街の空気をお土産として詰めるように空に向けてぶるぶると振る。
イスタンブール旧市街のマーケット、スペインの教会、バンコクの夜店街で。
財布やらガイドブックやら、バッグの中身を預けられた僕はそれを横で眺める。
旅の仕上げ、明日は帰国という最終日の夜に行う二人の儀式だった。

 

何かと出不精だった僕と、小さい頃から父親の仕事の関係で海外を転々としていた彼女は大学で出会う。そして、半ば強引に海外旅行に付き合うようになった。

 

 

「一つの旅で一つね。」

 

そう言って、旅行前、必ず薄い麻布で出来たエコバッグを購入する。
旅慣れた彼女曰く、高級バッグはひったくりに狙われやすいし、リュックサックではバックパッカーと間違われて、特に若いアジア人はホテルやレストランで冷ややかな態度を取られるらしい。ついでに「麻」が一番匂いが染みつくそうだ。

 

 

「ヨーロッパのセレブは旅先ではエコバッグだよ。アンジェリーナジョリーもそうだし」

 

と、どこまで本当のことか分からないことを言い、肩からエコバックをかけた身軽な恰好で海外の街を颯爽と歩く。そこに重いスーツケースを引きずった僕が付いていく。それが2人の旅のスタイルだった。

 

 

 

 

初めこそ「えー、海外なんて面白いの?」と抵抗していたが、実際に行ってみると刺激的で楽しい。もちろんそれは通訳兼名ガイドの彼女がいてくれるからなのだが、いつの頃からか、アルバイト代を貯めて行く年に数回の海外旅行が二人の共通した趣味になっていた。

 

 

彼女とは同じ歳。

出会った19歳のころから社会人3年目の25歳までの6年間。そろそろプロポーズか、なんて思っていた頃には旅の回数は20回を超えていた。いつものデート、いつもの会話。今度はどこに行こうか?そんな話をしていた時、

 

「何だか最近体が重い」

とにかくパワフルで、風邪すらひいたところを見たことがない彼女がそう言う。

 

「一度病院に行ってきなよ」

そこからはドラマにあるようなお決まりのパターン。

腹膜という臓器を包む「膜」の表面に悪性に肉腫というがんの一種が出来ていて、既に転移し始めていた。若い彼女は細胞活動も活発で、同時に悪い細胞の勢いも凄く、残念ながら今の医学ではそれを防ぐ術はないとのことだった。

 

「エコバッグ。何枚か持ってきてくれない?」

 

 

入院中の彼女からそんなメッセージが入り、仕事の合間をぬって「旅の思い出」を届ける。

何故かバッグの保管は僕の役割になっていて、狭い部屋のかたすみに積まれていたものを、運んでいる途中に「匂いが飛ばないように」とご丁寧に一枚ずつジップロックに入れていく。それを見た彼女が「流石。やることか細かい。君に任せて正解だね。」と笑う。

 

袋を開けては鼻を突っ込み、まるでソムリエのように「うんうん」とうなずく。

 

「それ、エジプト行った時のやつじゃない?ラクダがバッグの端を咥えちゃって離さなかった」、「やっぱそう?何か唾の匂いがする」

 

そんな話も長くは続かず、「ありがとう」と言ってそっと袋を閉じて目をつむる。旅の思い出に浸っているのか、抗がん剤の影響なのか、虚ろな夢の世界へ。

 

 

 

そしてその数日後、彼女は最後の旅に出た。今回だけは僕を残して。

 

亡くなる直前、彼女のご両親や、共通の同級生や、もちろん僕も病室に駆け付けて、涙涙だったのだけど、それは誰かに話すようなことでもないので、心の中に仕舞っておきたいと思う。

 

 

「さあ、今回はどれにしようか」

 

お店でエコバッグを吟味する。

彼女が亡くなってからというものしばらくは旅行どころか何もする気にならなかったが、人間はそう長くも落ち込んでいられない生き物らしい。

彼女の死も過去のこととなり、友人や、新しくお付き合いした方(流石に数年あとの話だけれど)と「どこか行こう」という話になれば、彼女から薫陶を受けた海外旅行熱が再び燃え上がってくる。

 

「何それ?何でエコバッグ?」

 

同行者にそう問われれば「ヨーロッパのセレブは・・・」と講釈をたれる。

旅のお供のバッグと、本当は彼女と訪れたかもしれない異国の街を歩き、現地の空気を、その匂いを吸わせ、家に戻れば「真空パック」する。

かと言って、それを墓前に手向けて旅の報告をするわけでもなく、残念ながら僕はそこまでロマンチストでもない。

でも旅の途中。何の前触れもないほんの一瞬。街角に、空港に、ホテルのラウンジに彼女を感じる。

 

だから僕は安物のバックを持ち歩く。それが二人の目印なのだから。

 

「 Dの世界 」 エコバックが紡ぐ ショートストーリー

ペンネーム:黄身川原プリン

 

 

「久しぶりだな。だけど、うちのボスはああ見えてシャイな人でな。長い間は話せないかもしれない。で、元気だったか?そっちは」

 

 

「まあ、見た通りさ。年相応に老けたよ。」

 

そういう彼は確かに随分とくたびれていたが、それはこちらも似たようなもの。

 

「しかし、昔の仲間に会うなんてな。4年ぶりか?5年か?」

 

「まあ、俺もそれくらいだ。若いのはたまに見かけるがな。このあたりじゃ俺たち世代はお前と俺くらいかもしれない。」

 

全てを達観したような顔で彼が言う。

 

俺たちの仕事はハード。そして怪我でもすればすぐにお払い箱だ。

 

野球選手やサッカー選手も似たようなものだろうが、我々の業界からすればまだ羨ましい。

 

現場に出て、早ければ1週間でオシャカ、火葬場直行。まるでベトナム戦争の兵隊のような「使い捨て」で、それでも毎年、毎月、毎日、新兵が送り込まれてくる。

全く因果な商売だ。

 

だからこそ、昔の仲間に会えると、まるで生き別れた肉親を探し出したくらい嬉しい。

 

「お前が新人の頃、ガチガチで」、「そういえば奴はどうした?」古い友との話は尽きないが、非常のアナウンスが流れる。

 

「次は自由が丘。自由が丘でございます。」

 

別れの時だ。

 

「うちのボス。途中で車両変えるかと思ったんだがな。混んでて身動きとれなかったみたいだ。お陰で随分と楽しかったよ。」

「そうか、ここで降りるのか。。。また、会えると良いな」

「そればっかりは神様に聞いてくれ」

 

わざとおどけた仕草で答える。

「元気でな」お互い目でそう言って別れた。

 

仲間の顔を一目見れば、そいつが誰だか分かるが、傍目には俺たちは一緒かもしれない。

 

白のキャンパス地のどてっ腹には「DELI&DELLCIOUS」と書いてある。

世の中の奴は「エコバッグ」と一緒くたにするが、俺たちはエリートだ。

 

通称「D」そして10年前に前線に送り出された我々は一世を風靡し、その当時、イケてる女子のほとんどは俺達を手にしていた。

 

「Dにあらずはエコバッグにあらず」

 

そう言われるほどの権勢を誇ったのだが、驕れず平家は久しからず。

 

その後は、色々なブランドが群雄割拠し、俺たちは主役の座を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん「D」の新人は今でも街で見かけるが、やはり当時ほどメジャーじゃないし、ましてや昔の友に会うなんてことはない。なんせ俺たちゃ短命だ。ほとんど死んでるだろう。

 

さっきの奴は若い頃表参道店で並んだ仲で、確か若いOLに雇われていったはずだが、さっき奴を膝の上に置いていたのは中年の女性だった。ロートルとして母親のところに配置転換されたのかもしれないが、そんなこと聞くだけ野暮だろう。

 

対して、うちのボスはずっと俺を使ってくれている。

 

自慢の白のキャンパス地は黄ばみ、それを定期的に漂白剤で落とすもんだから、輝けるDの証のロゴはすっかり剥げ落ちてしまったが、今も昔も俺の仕事はボスの弁当を守ること。

今朝もいつもの東横線。勤務先の自由が丘まで行くところを警護していたら、たまたまボスが立った前に座っていた女性の膝の上に「D」の文字。

 

我々の業界で言うところの「D被り」で、女性、特にうちのボスはやたらと嫌う。

 

とは言え、こちらのロゴはすっかり禿げ上がってるし、言わなきゃ分からん。

 

だんまり決めこもうと思ったのだが、ボスの顔を見るとやけにソワソワしてやがる。

 

「被り」に気付きやがったか・・・仕方ない。

 

相手はどうせ新人だろ、と睨みを利かせてみれば、なんと昔の仲間だったという話。

 

「被り」がバレた以上、うちのボスは間違いなく明日から乗る車両を変える。下手をすれば時間まで変えるかもしれない。10年仕えてきたから俺には分かる。

 

だからはあいつと再び会うことは、おそらく、ない。それはきっと奴も分かっているはずだ。

 

それでも最後に古い仲間に会えて良かった・・・

 

 

 

 

 

 

実はここ数ヶ月。マチの調子が悪い。マチってのは、バッグの底のことだ。

 

角の一部が随分痛んでな。すっかり薄くなっちまって破れるのも時間の問題。

 

人間で言えば老衰みたいなもんで「俺も随分ベタな死に方すんな。」そう思うと何だか笑けてくる。ハッハッハ

でも同情なんて必要ない。10年も現場を張った。そろそろ頃合だ。

 

明日か、1ヵ月後か「終り」は確実に来る。

でもそれは「今」じゃない。だったら仕事をするだけ。

それが俺達Dのプライドなのだから。

 

「 風をうけて 」 エコバッグが紡ぐショートストーリー

ペンネーム:黄身川原プリン

100万円を超す値段。

 

なかなか手に入らない希少性。過去の有名女優の名がつけられた女性憧れの高級バッグ。それが自宅に届いて、

 

私の7年は終わった。

 

 

クリスマス。

 

街の喧騒とイルミネーションは人々の心を華やかにし、お金がある人はもちろん、ない人もそれなりにこのイベントを楽しむ。

 

 

「大したものじゃないんだけど・・・」

 

赤と緑のリボンでラッピングが施されたプレゼント袋を開けると「DELI&DELLCIOUS」というロゴの入った白のキャンパス地のバッグで、最近よく見かける高級食材を扱うお店のオリジナル商品だった。

 

 

「弁当入れるのに便利かなと思って」

 

お給料も安いので節約のためにお弁当を持参していたが、お弁当箱の形と当時持っていたバッグの形がなんとも相性が悪く、満員電車でもみくちゃにされると中身が傾いてしまうことが多い。そんな話を随分前にしたが、そのことを覚えていてくれたのだろう。

 

 

そして、言い訳のように、新しいバッグを買ってあげたかったが、年末公演の舞台の支払いがあってどうしてもお金がなかったこと、バイト先の友人に聞いたら、女の子の間で「サブ」として、このバッグを持ち歩くことが流行っていること、このバッグは品薄で数店舗を巡って、ようやく表参道で見つけたこと、そんな話を付け加えた。

 

このバッグがいくらするのかは知らなかったし、後から偶然知ったその値段は思っていたよりは高かったが、それは私にはどうでも良いことで、とにかくなけなしのお金で彼がしてくれた贈り物が嬉しかった。

 

 

 

 

アパレル販売員と売れない俳優。24歳と22歳。薄給女と金欠男。
しかし、そんな二人のクリスマスは本当に幸せで、白地のバッグまでが自分に微笑みかけてくれている。そんな気さえした。

 

「お相手のどんなところに惹かれたのでしょうか?」

 

芸能レポーターがそう問いかけると、「演技派」と評されるその女優さんがはにかみながら婚約者の良いところを口にする。

夕方から何度も繰り返し流されるその映像を目にし、つけなければ良かったと後悔しテレビの電源をきる。部屋は驚くほど静かで、遠くからかすかに電車の走る音がする。

 

この狭い部屋に彼が転がり込んできた月日と同じ、付き合いだして3年が経った頃、彼が大きなチャンスを手にした。

 

NHK朝の連続ドラマ。

 

「朝ドラ」のオーディションに合格し、主人公の「頼りない先輩」という中堅どころの役を得たのだ。

その時まで知らなかったが、朝ドラは東京のNHKと大阪のNHKが交互に制作していて、彼が抜擢されたのは「大阪班」。準備期間を含めると、ほぼ1年間現地にかんづめになるため、彼は「単身赴任」していった。

 

あの時一緒に付いて行ったらどうなったのか?

 

 

そう思うこともあるが、ちょうど私は私でそれに前後して売り場のマネージャーに昇格していたし、何より「ラストチャンス!!」と集中する彼の邪魔をしたくなかった。

 

 

毎日かかってくる電話やメールは彼のワクワク感で満ち溢れていたが、それも撮影が佳境に入ると、2日に1回になり、3日になり、1週間となっていったが、彼が役にのめり込むタイプであることは知っていたので、さして気にもしていなかったし、その頃には、朝出社前に彼の姿をテレビで見る機会が増えていて、それはそれで満足だった。

朝ドラ史上、5本の指に入る視聴率を叩き出したそのドラマは、出演者の多くを人気者にした。中でも飄々とした独特の雰囲気を持ち、舞台出身のしっかりとした基礎を持つ彼の人気はすさまじく、放映終了直後には多くの作品のオファーが舞い込むようになっていた。

 

 

しかし、彼は戻ってこなかった。

 

ドラマが社会現象のようになり、「〇〇ロス」と騒がれるようになった頃、突然連絡が途絶え、私からの連絡にも応じなくなった。そうして別れ話すらなく、私たちの関係は終わってしまったのだ。

 

 

「売れたら、高いバック買ってやる!そんな汚いバッグ捨ててしまえ!!」

 

明日から大阪。という前の晩。狭い部屋でのささやかな宴で、普段は大きなことを言わない彼が唐突にそんなことを言う。3年前にプレゼントされたバッグは、何度も洗濯や漂白を繰り返し、かなりくたびれていて、それが目に入ったのだろう。

 

「楽しみにしてる」そうこたえると、「おう」と一言だけ返した。

 

 

彼が去ってからも、私はそのバッグを捨てらずにいる。

 

 

 

 

我ながら嫌になるが、心のどこかで「いつか」という気持ちが残っていたし、このバッグが彼との「約束」のような気がしていて、どうしてもふんぎりがつかない。

一時期もの凄く出回ったバッグなので、街で同じものを持つ女性とすれ違うことも多く、今朝も電車でそんなことがあったが、そんな時はついつい過剰に反応してしまう。

もちろん、ボロボロだから気恥ずかしいのもある。しかし、周りにとってはただのオシャレなエコバッグかもしれないが、私にとっては違う。一緒にして欲しくない、という自分でも良く分からない気持ちがあるのと、誰かが持つ真新しいそれを見ると、彼と過ごした幸せなクリスマスのことを思い出すからかもしれない。

 

そして今日、お昼の休憩時間。ネットニュースで彼の婚約報道を目にし、家に帰ると同時に差出人不詳の高級バッグが届いた。
彼が一体どういう気持ちでこんなことをしたのか分からない。謝罪なのか、けじめなのか。

しかし、今となってはどうでも良いことだった。
こうして約束は守られ、私の7年は終わった。

 

 

ちなみにバッグはありがたく頂いた。
捨てたり、燃やしたり出来れば恰好良いのだが、値段を調べたら急に現実的になってしまい、買い取りショップに持ち込んだら120万円にもなって、俳優は売れれば儲かるらしい。

そのお金で新しい家に引っ越した。色々な物を捨て、色々な物を買い、それでも残ったお金は相当悩んで、前から興味があったある資格取得のための学校費用に充てた。

実際に行動に移してみると、自分でもびっくりするくらいすっきりして、陳腐な言い方だけど、7年間止まっていた時計の針が動きだした。そんな気がする。

 

そして、例のバッグは。。。。実はまだ持っている。

 

あの日から数日。まるで自分の使命を果たしたかのように底から破れてしまったのだけど、修理専門業者に持ち込んで直してもらったら・・・・その費用はなんと2万5千円!!

店員さんも「買いなおした方が安いですよ」といぶかしがり、こちらも苦笑いするしかなかったが、破れた場所を繕ってもらい、特殊な洗剤でクリーニングをかけた。

おかげで、ちょっとだけ残っていたロゴは完全に落ちてしまったが、見違えるように綺麗になった。修理をしてくれた方の話では、キャンパス地は元々ヨットの帆として使われていたくらいなので、丁寧にメンテナンスすれば抜群に長持ちするらしい。

 

こんな安いバッグに思い入れを持つなんて我ながらバカげている。そう思う。

 

でもこのバッグは私だ。

 

お手軽で、地味で頑丈。そして今となっては高級食材店のロゴも、売れっ子俳優がいつか迎えにくる女というブランドもない。良く見ればお互い傷だらけで「新品」ではないけれど、とりあえずは「真っ白」になれた。

 

突然送られてきた高級バッグ。その意図は分からないが、それは風になり、このバッグを「帆」にして私を前に進めてくれた。

 

旅はまだ長い。まだまだ帆をたたむわけにはいかない。